研究内容
原子と光の物性理論
当研究室は量子力学、多体物理、光と物質の相互作用などのテーマにゆるやかな興味を持っています。研究対象は一言では原子・分子・光における凝縮系物理の現象です。
まずは私が中高生向けに書いた文章でインターネット上で読むことができるものを紹介します。気軽に読めるはずなので最初はこちらをどうぞ。
河合塾みらいぶっく:数学的なひねり構造で電気が流れる「トポロジカル絶縁体」の解明
数理女子:数学と物理 ―トポロジーと絶縁体と私の研究生活
近年、原子・分子・光物理(Atomic, molecular, and optical physics, AMO物理とも呼ばれる)の発展に伴い、光によってコントロールされた原子や光自身を用いて様々な現象・模型・ハミルトニアンを高い精度で実現できるようになってきました。こういった物理系を人工量子系などと呼ぶこともあります。当研究室の興味は人工量子系の物性理論で、代表的な研究対象は冷却原子系、光共振器・光結晶・光導波路、ポラリトンなどなどです。
人工量子系で物性理論をするモチベーションはいくつかあります。まずは量子シミュレータあるいはアナログ量子コンピュータとして使えるかもしれないということです。人類が興味ある模型・ハミルトニアンは往々にして数値的・解析的・近似的に解くのが難しいことがあります。これを人工量子系で実現して自然に「解いて」もらえば良いのです。ハミルトニアンをそのまま実現できれば、例えば符号問題もありません。人工量子系で実際に実現する部分は実験家の仕事ですが、そもそもどうやれば特定の模型・ハミルトニアンを人工量子系で実現できるのかというのは理論的な問題です。例えば今ではみんな当たり前のように冷却原子系でHubbard模型を考えていますが、冷却原子系でHubbard模型を実現できるというのは1998年に理論的な提案があるまでは自明なことではありませんでした。
人工量子系は既存の模型・ハミルトニアンを実現するだけでなく、人工量子系ならではの特徴から新しいタイプの模型・ハミルトニアンを考えることもできますし、新しい模型からは新しい現象・物理が生まれます。光の自由度をあらわに含むDicke模型やJaynes-Cummings模型は人工量子系ならではのものですし、光の自由度を含まない場合でもボーズ多体系で最近発見された系の量子ゆらぎ(Lee-Huang-Yang補正)によって安定化される液滴・束縛状態はその良い例です。また、既存の模型を実現するのであっても人工量子系での測定可能な量というのは他の系とは違ってくることがありますし、測定量が違えば見えてくる現象も違ってきます。例えば冷却原子系では量子ホール効果はホール抵抗の量子化ではなく重心運動の量子化の形で現れます。既存の物理現象を新たな角度から検討・検証することはやはり新たな物理へとつながる可能性を秘めています。
人工量子系でさまざまな模型・ハミルトニアンが実現できるようになってくると、そこからもしかしたら思いがけない応用が生まれるかもしれません。超伝導量子回路やイオンを真空中にトラップする技術は近年デジタル量子コンピュータを実現する技術として脚光を浴びています。私自身も、ある種のトポロジカルな状態を用いて光を一方向にしか流さないデバイスが実現できるのではないか、という理論提案をしたこともあります。AMO系の物理は基礎と応用が近いところで互いに影響を与えながら急速に進展しており、とても刺激的な分野です。 以下、私自身の以前の研究を一部紹介します。
原子と光におけるトポロジカル物性
トポロジカル絶縁体はもともと固体電子系において提案・発見されました。電子のとる量子状態のある種の「かたち」を記述するトポロジーの影響が物質の表面状態に反映されるという非常に非自明な現象です。類似の現象は原子や光にも存在することがわかってきているのですが、しかしそもそも光の「絶縁体」とはどういう意味でしょうか。「絶縁体」という言葉は電子などフェルミオンに使う言葉です。光や多くの原子はボソンです。光は普通の意味では絶縁体にはなりませんが、光が取り得るエネルギー状態(バンド構造)がトポロジカル絶縁体において電子が取るエネルギー状態と同等のものになることはできます。この場合、トポロジカル絶縁体のトポロジー由来の現象(特徴的な表面状態など)が光でも見えることがあります。光におけるトポロジカル絶縁体の類似物の研究をトポロジカル・フォトニクスと言います。電子系にはない光ならではの散逸の効果や、トポロジカルな状態を用いたレーザーなどトポロジカル・フォトニクスは独自の研究の進展を見せています。専門的なことを知りたい方は、私が以前書いたレビュー論文をおすすめします。
- Ozawa, et al., Topological Photonics, Rev. Mod. Phys. 91, 015006 (2019)
より具体的な研究テーマの例に人工次元や量子計量の効果などがあります。人工次元とは、普通の空間次元ではない他の自由度(内部自由度など)を用いて空間次元をシミュレートする方法で、この方法を用いれば空間4次元の物理現象なども人工量子系でシミュレートできます。人工次元についてより詳しくはレビューや解説記事などをご参照ください。
- Ozawa and Price, Topological quantum matter in synthetic dimensions, Nature Reviews Physics 1, 349–357 (2019)
- 『人工次元を用いたトポロジカル物性の研究』日本物理学会誌第75巻第4号 (2020)
量子計量というのは量子状態のパラメータ空間における幾何学的性質の一つです。トポロジカル物性においてベリー位相やベリー曲率などの幾何学的効果は詳しく調べられてきました。これらとは少し違うパラメータ空間の幾何学的な性質が量子計量で、パラメータ空間に量子状態から誘導されたリーマン計量を定め、系の局在に関する性質を反映していることが知られています。近年、量子計量がさまざまな物理現象に顔を出すことが分かってきており、私も冷却原子系や光共振器系で量子計量に直接由来する現象を見つけ、量子計量の測定方法を提案しました。実験家と共同で冷却原子系やダイヤモンドNV中心での量子計量の測定にも関わりました。
古典系における量子力学の類似現象
人工量子系以外の興味として、古典系の研究もしています。量子力学において粒子は波のように振る舞う、と言われることがあります。実は、量子力学における(いわゆる一粒子の)性質の多くは古典的な波でも再現することができます。この量子力学と古典的波動の間のアナロジーがどこまで成立するのかというのは興味深い問題です。エンタングルメントのような真に量子力学的な性質は古典系では(効率的には)シミュレートすることはできませんが、例えば量子ホール効果など一見非常に量子的な現象は古典系に対応する現象があることが知られています。量子力学から着想を得て古典系で奇妙な現象を見つけることができると面白いと考えています。例えば、古典的な振り子をつなげたようなニュートン力学で記述できる系で量子ホール効果で知られているトポロジカルエッジ状態を実現するにはどうすれば良いのか、という提案を行ったことがあります。また、最近は理研や慶應のグループと共同で神経幹細胞の集団運動がトポロジカルエッジ状態と類似のエネルギー構造を持ち、その結果トポロジカルエッジ状態のような現象が神経幹細胞集団でも観測されることを示しました。神経幹細胞集団は完全に古典的なネマチックなアクティブマターとしてモデル化できます。量子系では様々な面白い現象が知られています。そういった現象が古典系でどう見えてくるのかというのは興味深い問題です。